写真資料館

1945年、広島に原爆が投下された廃墟の中で考案された当初は、ハネツキトリオゲームの名称で親しまれていた。

その後、ダブルスのハネツキゲームと名称を改めた。

更に、ネットの高さを低くしてハネツキテニスと名称を改めた。

1947年頃からエスキーテニスと名称を改めた。

広島平和大通り(百米道路)の平和コート(10面)には、ナイター設備も整備され、老若男女を問わずエスキーテニスは楽しまれていた。(写真は、1955年当時)

初代 優勝楯(1952年の平和コート完成記念大会時の寄贈品)

このように広島平和大通りの名物として楽しまれていた平和コートは、1965年に

白島公園内へ移転し、更に、1987年に東区の新牛田公園内(現在地)へ移転し

た。

広島の企業の昼休みには、このようなエスキーテニスを楽しむ光景がいたるところで

みられた。(写真は,当時の東洋工業(株)、現在のマツダ(株))

1965年に広島平和大通りから移転した白島公園内の平和コート。

(更に、1987年に東区の新牛田公園内(現在地)へ移転した。)

ユニークさの一つである羽根は,中国からの輸入品の鶏毛であったが,原材料の確保や

後片付けの煩わしさなどから,2001年に人工のものに認定を変更した。